出会い ゾビラックス軟膏 E!チャット管理人 X-ふぁいる  天ぷらが好き!【4】

天ぷらが好き!【4】

 「Filete」というのは、直訳すると〝切り身〟の事らしいのですが、料理用語になると衣を着けた揚げ物料理になるそうで、そんなフィレッテに最も近い天ぷらが
〝長崎天ぷら…_φ(・・ )b〟
と言われる郷土料理でしょう。


↓ 長崎県平戸市の平戸城界隈。天ぷらが日本に渡来したのは長崎県らしいが、当時長崎で海外との交流拠点になっていたのは、現在の長崎市ではなく平戸地方だったらしい。
Hirado castle1
Hirado castle1 / Meh_sleep


 長崎天ぷらは、その名の通り長崎県の郷土料理ですが、衣に卵だけではなく砂糖なども混ぜて味を付けて揚げるのが特徴で、天つゆや塩を付けずに
〝そのまま食べるとウマ━━(゜Д゜)━━!!!〟
な料理になっており、衣の付き方も卵の色がしっかり付いた厚めの衣になっています。

 ですから関東圏…というか、全国規模に広がった〝江戸天ぷら〟からすると、同じ料理には思えないのですが、長崎天ぷらは
〝江戸天ぷらの祖先 Σ(゜o゜ノ)ノ〟
とも言える料理ですので、興味がある方は〝お取り寄せ〟して食べてみるといいかもしれません(まぁ、揚げ物は〝揚げたて〟がウマ━━(゜Д゜)━━!!!なので、出来れば長崎まで行って食べるのが良い)。


↓ 長崎天ぷら。江戸天ぷらは基本的に練り物を天ぷらダネにする事は珍しいが、関西地方くらいまでの西日本では昔から練り物も〝アリ〟だったらしい。本文中に紹介したような野菜や魚介類に厚めの衣を着けた長崎天ぷらのフリー画像は無かったので、それも見たい人は画像検索してみよう。ただ、現代では長崎でも江戸天ぷらを出している店は少なくないので、探すのは意外と面倒だったりする。
長崎てんぷら 鰯のげんこつ
長崎てんぷら 鰯のげんこつ / ucb


 天ぷらの王道ともいえる、江戸天ぷらが生まれたのは江戸時代に入ってからです。
 長かった戦国時代も終って、治安が回復されるにつれて庶民の生産力も向上した事で生活も豊かになり、四代将軍・家綱の頃には江戸の町に
〝屋台のファーストフード店が出現 Σ(゜o゜ノ)ノ〟
します。


↓ 四代将軍・家綱の時代に〝日本初の屋台〟が登場した。もっともラーメンはご存知の通り、戦後になって中国の拉麺を日本風にアレンジしたものだが、その味がウケて日本中に広がり、屋台の蕎麦屋をほぼ全滅させてしまった。〝正しい当時の屋台〟に関しては後述。
RC屋台のラーメンラジコン

 この頃までの日本というのは、
〝1日2食が基本 Σ(゜ロ゜;)〟
で、昼食を摂る習慣はまだ根付いていませんでした。

 というのも、戦国時代の頃だと庶民はまともに食事にありつけなかったからで、別に好き好んで食事回数を2回にしていたわけではありません。
 それが徳川幕府の治世が訪れると共に、庶民は落ち着いて農業や漁業の生産活動を送れるようになって、食料の生産性が高まると同時に、物流や貨幣制度も整備されて、生活も豊かになったわけです。


↓四代将軍・家綱。徳川家康の〝直系最後の将軍〟で、家康のひ孫にあたる。この時代になって、ようやく日本国内は江戸幕府の政治システムが安定して町が栄え、庶民の暮らしも向上していき、食事も1日3回になったり、時には屋台で小腹を満たすようになった。
四代将軍・家綱
画像参照-Wikipedia-『徳川家綱』

 日本人(主に庶民)の食事回数が1日3回になったのは、徳川幕府の治世が安定した江戸時代の中期の始め頃(1650~60年代くらい)だと言われていますが、そんな1日2食から3食へシフトし始めた頃に屋台で食べ物を提供する
〝外食産業 (・∀・)v〟
が興ったと思われ、寿司や蕎麦と共に天ぷらを売る屋台も現れました。


↓ 現代では、ほとんど天然記念物の〝蕎麦屋の屋台〟。蕎麦の屋台が出現した背景には1日2食だった当時の庶民生活が密接に関係していたようで、その頃の食事は朝と晩の2回だけ摂っていた。そころが冬は夜明けが遅くて日が暮れるのが早いので晩飯から朝食の間の時間が長く、夜中に小腹を空かす人は多く。そんな人々を目当てに〝夜鳴き蕎麦〟の屋台を始め、それが大繁盛したのが屋台のルーツらしい(画像はイメージ)。
DSC08042.JPG
DSC08042.JPG / casek


 江戸の町に屋台が出現した理由は、1日2食で空いた小腹を満たす以外にも、当時発生した大火事〝明暦の大火〟で江戸の街の半分以上が焼けてしまった為、それを復興するのに全国から大工が集まって来て、そんな〝単身赴任の大工〟相手に食事を売る連中が屋台を始めたとかいう説もありますが、江戸の復興が終わった後でも屋台は廃れず、むしろ庶民の食欲を満たす存在として益々発展したようです。

↓ 明暦の大火の様子を描いた当時の絵。色が付いていないのでイマイチ迫力が無いが、江戸の町の半分以上を焼き尽くし、江戸城まで被害を受けたというトンデモない大火事だったらしい。ただ、この火事の教訓を活かして江戸の町は消防組織が整備された。そして復興の為に全国から大工職人が多く集まり、江戸の町は被災以前よりも繁栄していく
明暦の大火
画像参照-Wikipedia-『明暦の大火』

 まぁ、屋台と言っても現在のリヤカーのような車輪付きのモノではなく、天秤棒の両側に箱を付けて持ち運ぶ〝移動式屋台〟や、他には現在でもたまぁ~に見かける、簡単にバラせるけど基本的には組み立てたままにして営業している〝据え置き式屋台〟といったモノでした。

 そんな屋台で寿司や蕎麦を売っていたのですが、町民文化が益々華開くようになると、寿司屋や蕎麦屋は屋台ではなく、ちゃんとした店舗販売をする店も出来ていったわけですが、
〝天ぷらは高温の油を使うから、危険なので屋台でしか販売するな ( ̄^ ̄)b〟
というお達しが幕府からあったようです。


〝籠式屋台〟と言われる移動式の屋台。材料や調理器具を収納した籠を天秤棒につけ、担いで移動した。
籠式屋台
籠式屋台 / ajari

〝据え置き式屋台〟というのは、現在福岡の博多で見られる〝屋台〟のような簡易店舗で、移動式に比べて大型の設備で営業できる。ただ昔はどちらにも〝車輪〟は付いていなかった(博多の屋台は画像のような据え置き型もあるが、どちらかと言えば〝車輪付き屋台〟が多い…ような気がする)。
Fukuoka Yatai
Fukuoka Yatai / shibuya246


 この幕府の命令は、全部木造で密集家屋が多かったという当時の江戸の住宅事情を考えた上で、至極真っ当なお達しであり、その頃幼い将軍・家綱に代わって幕府を仕切っていた大老・保科正之が非常に優秀な政治家だった事を示しています。
=続く=

【このネタを初めから読む】

保科正之(ほしな まさゆき)。江戸幕府において初の大老職についた男であり、会津松平藩の初代藩主でもある名君である。明暦の大火の復興政策をはじめとして、数々の優れた制度を作り出したのがこのおっさんで、江戸幕府が250年以上存続できたのは、保科正之が作り上げた統治システムが優れていた事が大きな一因であるが、義務教育では紹介されない人物なので、とっても偉いのにあんまり有名ではない人
保科正之
画像参照-Wikipedia-『保科正之』

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